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“Tekisuto sokei no nai kōtei: Bukkyō kyōten to yudayakyō rabi bunken kenkyū ni okeru honbun hihan, soshite ‘Hirakareta bunkengaku’ dejitaru hyūmanitīzu puroje­kuto” テキスト祖型のない校訂: 佛敎經典とユダヤ敎ラビ文獻硏究における本文批評、 そして「開かれた文獻學」デジタルヒューマニティーズ プロジェクト [Editing with­out a

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Academic year: 2021

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紹介

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ジは、個々のイメージのレベルでは禪觀經典と顯著な类似性を示すが、それ らのイメージの配列・構成を何か特定の禪觀經典によって說明することはで きない。恐らくは、壁畫が何らかの文獻に基づいて描かれたというよりは、 壁畫と文獻の雙方が、觀想實踐者逹の口頭傳承という大きな流れの異なった 側面を傳えていると考えないと說明できないのではないだろうか。禪觀の口 頭傳承は、いくつもの波をもつ大きな川の流れのようなものであり、そのう ちの⺇つかの波がたまたま個々別々に記錄されたものが、我々の有する複數 の禪觀經典および禪觀壁畫だったのだと考えられる(Yamabe 1999, 44)。そ の關係を模式的に圖示するとしたら、以下のようになるであろう(山部 2010, 305, 圖22)。    この圖と、シルク敎授が示す大乘經典の諸版の狀況を示す模式圖(圖4) とを比較されたい。もとよりインドと中央アジアという異なった地域の異な ったジャンルの資料に關する觀察であるので、完全に一致する譯ではないが、 我々が別の地域の別のコンテキストで类似した狀況を觀察していたというこ とは、興味深いことなのではないだろうか。  私自身も、さらにシルク敎授の成果から學びながら、學的交流を深めてい きたいと願っている。讀者の方々も、それぞれの視點から同敎授の提言を熟 讀し、何らかの示唆を得て頂ければ幸いである。 (參照文獻)

Yamabe, Nobuyoshi. 1999. An Examination of the Mural Paintings of Toyok Cave 20 in Conjunction with the Origin of the Amitayus Visualization Sutra. Orientations 30(4): 38-44.

山部能宜 2010.「禪觀と石窟」『新アジア佛敎史5 中央アジア 文明・文化の交差點』 佼成出版社.

― 2018.「第十八囘國際佛敎學會大曾報吿」『東方學』136:101-111.

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したことを考え始めた今や、次のことを問わねばなりません。テキストとは正確 には何を指すのか。こうした問いに答えようとする者たちによって、多量のイン クが費され、數知れない木々が犧牲になってきました。彼らはしばしば、抽𧰼的 で理論的な形でそうした問いに答えたり、あるいは答えようとしてきました。確 かに私の第一の關心もまた理論的なものですが、⺇分實踐的なものであります。 私は、著者の意圖や解釋學的循環に關し哲學的に考察するのではなく、文獻學 の方向に向かいたいと思います。それゆえ、私がはじめに知りたいことは、今 問題にしているこのテキストというものをいかに位置付けるかということです。  これは一見、難しい問題には見えません。私は寫本を1本、場合によっては複 數所持しています。そして、インド大乘佛敎の經典の場合には、おそらく飜譯 もあります。まずは漢譯とチベット語譯であり、それぞれ、寫本あるいは印刷版 で確認されます。私はこれらの資料を收集しまとめることができますが、それら の資料をまとめれば、いわゆるテキストを手に入れたことになるのでしょうか。  個々の寫本とテキストの關係とは何でしょうか。ここでは儒者のようになっ て、正名(名稱を正すこと)に關わる必要があります。この點に關しては、ラ ビ文獻(rabbinics)に關する學問がヒントとなるでしょう。

 ハイム・ミリコフスキー(Chaim Milikowsky)1は、「作品Work」という語

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こととなります。我々は推測しなければなりません。洒落た用語では、これは 「推測的修正(conjectual emendation)」あるいは「本來的意味での修正(emendation

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できるようなデジタル環境を構筑することにより、このゴールに向けて大きな 貢獻をしていきたいと願っています。 

ラビ文獻と圣書本文批評に關するごく 單な參考文獻表

Boustan, Ra’Anan S.

2007 “The Study of Heikhalot Literature: Between Mystical Experience and Textual Artifact.” Currents in Biblical Research 6/1: 130-160.

Davila, James R.

1994 “Prolegomena to a Critical Edition of the Hekhalot Rabbati.” Journal of Jewish

Studies 45: 208-226.

2005 “(How) Can We Tell if a Greek Apocryphon or Pseudepigraphon has been Translated from Hebrew or Aramaic?” Journal for the Study of the

Pseudepigrapha 15: 3-61.

Fraade, Steven D.

1999 “Literary Composition and Oral Performance in Early Midrashim.” Oral

Tradition 14/1: 33-51.

Hayman, A. P.

1995 “The ‘Original Text: A Scholarly Illusion? In J. Davis, G. Harvey, and G.

Watson, eds., Words Remembered, Texts Renewed: Essays in Honour of John

F.A. Sawyer (Sheffield: Sheffield Academic Press): 434-449. Jaffee, Martin S. Jaffee.

1999 “Oral Tradition in the Writings of Rabbinic Oral Torah: On Theorizing Rabbinic Orality.” Oral Tradition 14/1: 3-32

Milikowsky, Chaim.

1988 “The Status Quaestionis of Research in Rabbinic Literature.” Journal of Jewish

Studies 39/2: 201-211.

1996 “On Editing Rabbinic Texts.” Jewish Quarterly Review 86/3-4: 409-417. 1999 “Further on Editing Rabbinic Texts.” Jewish Quarterly Review 90/1-2:

137-149.

2002 “On the Formation and Transmission of Bereshit Rabba and the Yerushalmi: Questions of Redaction, Text-Criticism and Literary Relationships.” Jewish

Quarterly Review 92/3-4: 521-567.

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in the Study of Midrash. Supplements to the Journal for the Study of Judaism

106. (Leiden and Boston: Brill). Schäfer, Peter

1986 “Research into Rabbinic Literature: An Attempt to Define the Status Quaestionis.” Journal of Jewish Studies, 37:139-152

1989 “Once Again the Status Quaestionis of Research in Rabbinic Literature: An Answer to Chaim Milikowsky.” Journal of Jewish Studies 40/1: 89-94. 1992 The Hidden and Manifest God: Some Major Themes in Early Jewish Mysticism

(Albany: State University of New York Press). Tov, Emanuel

1992 Textual Criticism of the Hebrew Bible (Minneapolis: Fortress Press/Assen and Maastricht: Van Gorcum).

1997 The Text-Critical Use of the Septuagint in Biblical Research. 2nd ed. Jerusalem Biblical Studies 3 (Jerusalem: Simor).

譯者あとがき

 本稿は、2019年5月19日に早稻田大學文學學術院において行われたJonathan A. Silk 敎授(ライデン大學)による講演“Editing without an Ur-text: Buddhist Sūtras, Rabbinic Text Criticism, and the Open Philology Digital Humanities

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分野で扱われるテキストのそれとは異なる面もあろう。だが、テキストや寫本に 對する考え方として非常に興味深く參考となると思われるので、講演の論の背景 にある兩者の議論をここに紹介してみたい。兩者の論爭はシェーファーが1986 年に發表した論文に始まる。そこで、まずこの論文の趣旨を說明し、その後、こ のシェーファーの論に答えた形のミリコフスキーの論文數本を取り上げ、彼の反 論の內容をまとめて紹介する。譯者はラビ文獻に關してはまったくの素人であり、 テキストの內容に關わるような細かな點まで追えたわけではない。また、參照す べき論文は他にもあるかと思う。限られた範圍であるが、テキスト校訂に關する 兩者のおおよその見解の違いを傳えられるよう試みたい。  1986年の論文においてシェーファーは、現存最古の釋義的Midrash(圣書註 解)であるBereshit Rabbaの複數の寫本に關し、それらが示す讀みの違いが非常 に大きいことを指摘する。そしてそれは、個々の寫本が一つの作品の異なった版 (recension)であるということを示しているのか、あるいは、それら寫本はそれぞ れある程度獨立したものであり、それらをBereshit Rabbaという一つの作品とし て把える見方は架空の見方にすぎないということなのか、という疑問を提示する (p. 146)。

 また、Bereshit Rabbaに引用されているYerushalmi(エルサレム・タルムー ド)が現存のYerushalmiとは異なることから、Bereshit Rabba成立時、Bereshit

RabbaとYerushalmiの兩テキストがそれぞれ獨立した別のテキストであったのか

どうかを疑う(p. 147)。そこでは、Yerushalmiに複數の編纂段階がありその初期

のものがBereshit Rabbaに引用されたという考え方は却下されている。その場合、

Bereshit Rabbaに引用されたYerushalmiはまだ最終的な編纂段階に至っていない のであるからいわゆるYerushalmi('the’ Yerushalmi)とは呼べないであろう、と いうのがシェーファーの示す理由である。

 さらに、口傳律法の集成であるMishnahと Toseftaに關しても、ある場合には 一方が他方を前提としているがまた別の場合にはその逆の現𧰼が見られる、ある いは、Mishnahとはまったく獨立したToseftaの卷(tractate)も存在したり、また、 現在では知られるところのMishnahとは別のMishnahをその權威とするTosefta の卷があったり、というように、兩者の關係は複雜であることを指摘する。ま た、近年の硏究ではMishnah全體とTosefta全體を比べるのではなく、 Mishnah

と Tosefta各々の卷について檢討するようになってきているという點にも觸れる。

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と同樣の問題が殘るであろうと豫想する。すなわち、一つの卷に關しMishnhaと

Toseftaの關係を統一的に說明する規則が必ずしも見出されるわけではなく、同じ

卷の中に、Mishnahと Toseftaに關し異った形の說明を要するような資料が見つ かることとなるであろうと述べる(p. 149)。ここで彼が言わんとしていることは、 テキストを作品單位で考えることには限界があり、作品を構成する素材の單位 (“raw material”, “relatively small literary units”)で考える必要があるということであ

る。

 それを示す典型例として、シェーファーはさらにHekhalot文獻に言乁する。す なわち、この文獻は作品どうしの境界をはっきり區別することが難しく、構成要 素單位で考えざるを得ない文獻であると言う。そして、このような特徵は實はラ ビ文獻全體に關して言える大きな特徵であると主張する(p. 149)。 

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イルの出版が選ばれるのは、より原型に近いテキストを求める作業が、逆にかつ て存在しなかった新たなテキストを作り出してしまうのではないかという人々の 恐れもあるであろうが6、テキスト編纂というものは絶えず行われるものでテキ ストが固定化されることはないというシェーファーと同樣の考え方に基づく場合 もある7  ミリコフスキーは、こうした形のテキスト提示をテキスト校訂であるとするラ ビ文獻硏究者の風潮を强く批判する8。これらのテキストの校訂者はしばしば、 寫本閒の讀みの異なりが非常に大きいということをこうしたテキストの提示の仕 方を選擇した理由の一つとするが、ミリコフスキーは、實際に檢討してみるとそ れらの寫本閒の讀みの異なりはそれほど大きなものではないと指摘する9。寫本 閒で讀みの小さな異なりが數多く見られることはミリコフスキーも承知してい る。しかし彼は、その原因は、ユダヤ敎において書寫生が遠慮なくテキストを「訂 正」する習慣があったこと10Midrashテキストの圣書引用箇所において書寫生 が圣書の引用量を隨意に變化させたこと、書寫生それぞれの正書法に違いがあっ たこと、あるいはセム語にみられるシンタックスの搖れ11等であり、元のテキス ト自體とは關係がないと言う。ミリコフスキー自身は、可能な限り原型に近い形 のテキストを再現して提示することがテキスト校訂者に求められる責務であると 考え、それには、寫本それぞれの系統を明らかにするstemmatic analysis(系統分析) を最良の方法と考えている12。彼は、H. N. Dugganの言葉を借りて次のような考 えを示している。複數の寫本が示す讀みが、それら寫本が一つのテキストから派 そのまま提示し、異讀情報をアパレイタスに示すスタイルがある。ミリコフスキーはこれ らをまとめて「轉寫版」(transcriptional edition)と呼んでいる。彼は、こうしたテキスト の編者たちが、テキストに手を加えなかった成果を誇っていると傳えている(Milikowsky 1999: 141)。なお、これら轉寫版では最小限の誤りが訂正されることはあるようであり、 そうした意味でこのタイプのエディションは「原典書寫版」(diplomatic edition)と呼ばれ るべきではないとミリコフスキーは註意している(Milikowsky 1999: 142, n. 15)。 6 Milikowsky 2006: 98參照。 7 Milikowsky 1999: 145; 2006: 93參照。

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作業に意義を認めないのに對し、シルク氏は部分的祖型の再建の有用性を認識し ている。この差は、シェーファーとは異なりシルク氏が流動的ながらも「作品」 の存在を認めていることによるものと推測される。  その一方で、シェーファーと同じくシルク氏は、テキストに關し、それは常に 變化してきた流動的なものであることを强調している。そして氏は、こうしたテ キストの流動性はその始まりから大乘經典のアイデンティティーであったと語っ ている。テキストは常に流動的に存在していた、そしてそれゆえテキスト祖型は そもそも存在しなかった、というこの考え方は、大乘經典においてどの程度一般 化することができる見方なのであろうか。ミリコフスキーによれば、テキストが どのような形で存在してきたのかを見極めるには、寫本等個々の證言資料の分析 を續け、データを重ねることが必須であるということであった。シルク氏は、テ キスト祖型が存在しないとしても、その再構筑を目指す作業に何らかの意味はあ るとも本講演で述べている。それゆえ、同氏が率いるプロジェクトにおいては、 樣々な可能性を視野に留めて資料分析が行われるであろうと推測される。氏が示 したテキストのイメージは大乘經典一般に關し言えることであるのか、あるいは 何らかの修正が必要となるのか。プロジェクトが進むに連れその方向も見えてく るものと期待される。  最後になるが、ライデン大學地域學硏究所愽士課程在籍の鈴木伸幸氏には、講 演和譯の草稿に目を通していただき貴重なご助言とご協力をいただいた。ここに 記して謝意を示したい。 參照文獻(講演和譯末尾の參考文獻に記載のないもののみ) Milikowsky, Chaim

2010 Peter Schäfer and Chaim Milikowsky, “Current Views on the Editing of the Rabbinic Texts of Late Antiquity: Reflections on a Debate after Twnty Years.” In Martin Goodman and Philip Alexander, eds., Rabbinic Texts and the History

of Late-Roman Palestine (Oxford: The British Academy, 2010): 79-88.

土岐健治

1994 『初期ユダヤ敎徒圣書』日本基督敎團出版局。

(野武美彌子)  

Referenties

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